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2010年09月05日

2010年9月4日 DVD上映会



第2回スリーピースDVD上映会を男女共同参画センターで開催しましたチョキチョキチョキ

今回の上映作品


『キリング・フィールド』(The Killing Fields)は、1984年制作の米国映画。ニューヨーク・タイムズ記者としてカンボジア内戦を取材し、後にピューリッツァー賞を受賞したシドニー・シャンバーグ(Sydney Schanberg)の体験に基づく実話を映画化したもの。1984年のアカデミー賞において、助演男優賞・編集賞・撮影賞の3部門受賞。

カンボジア人助手のプランを演じたハイン・S・ニョールはカンボジア出身の医師で、実際に4年の間、クメール・ルージュの元で強制労働に就かされた経験を持つ。演技は素人であったが、この作品でアカデミー助演男優賞を受賞した。





上映前の説明


背景とあらすじ

[1]ベトナム戦争
第二次世界大戦の終了した1945年9月、それまでフランスの植民地だったベトナムは、ベトナム民主共和国の独立を宣言しました。しかし、フランスはこの独立を認めないために、翌年ベトナム南部にコーシチナ共和国を樹立。両者は対立し、1953年まで7年間の戦争が始まりました。(第一次インドシナ戦争)

西側:コーシチナ共和国 それを支援(操る)フランス、それをバックアップするアメリカ
東側:ベトナム民主共和国 支援するソ連、中国

1954年、フランス軍の要塞ディエンビエンフーが陥落し、ジュネーブで停戦協定が結ばれ、第一次インドシナ戦争が終結。
南北ベトナムは北緯17度線で分断され、社会主義の北ベトナム(ベトナム民主共和国:首都ハノイ)と南ベトナム共和国(首都:サイゴン=現在のホーチミン)という2つの国が生まれた。
北は共産圏諸国から、南は西側(主にアメリカ)から援助を受けます。
1963年に南ベトナムの政権はクーデターで崩壊します。でも、アメリカはそこを付け込まれて、ベトナム全土が共産化するのを恐れました。「ドミノ理論」と言って、ベトナムが共産化すればアジア中が共産化する流れができる、だからベトナムを死守せねば、という理屈で。
1964年、アメリカは南ベトナムの共産化を防ぐとして、とうとう本格的な軍事介入を始めます。
これがベトナム戦争です。

南ベトナム、アメリカ、韓国、中華民国、オーストラリア、フィリピン
タイ、ニュージーランド、クメール共和国、ラオス王国
VS
北ベトナム、南ベトナム解放民族戦線、民主カンプチア、パテート・ラーオ
ソビエト連邦、中国、北朝鮮

[2]カンボジアの中立政策
当時の国家元首だったシアヌーク殿下は東西冷戦の中ではどちらのも属さず
中立政策をとっていました。
ベトナム戦争中に南ベトナムでアメリカ軍に追われた南ベトナム解放民族戦線がカンボジア領内に逃げ込むのを認めながら、その一方で北ベトナムが軍事物資をカンボジア国内の港で荷揚げし、カンボジア国内を通って南ベトナムで戦闘中の南ベトナム解放民族戦線に届ける事を認めたのです。

[3]アメリカによるクーデター
ベトナム戦争を戦っていたアメリカは、このシアヌーク殿下の方針を気に入りませんでした。
ベトナム国内でいくら南ベトナム解放民族戦線を追い詰めても、第3国であるカンボジアの領内に逃げ込むと手が出せないからです。つまり「聖域」になっていたのです。
このためアメリカのCIA(アメリカ中央情報局)は、カンボジア政府軍の幹部をそそのかしクーデターを起こさせます。
1970年、シアヌーク殿下がモスクワ訪問中にロン・ノル首相がクーデターを起こしたのです。
ロン・ノル政権は早速、アメリカと共同でカンボジア領内にいる北ベトナム軍、南ベトナム解放民族戦線に攻撃を開始したのです。

[4]カンボジア国内内戦激化
祖国を追われたシアヌーク殿下は中国政府の全面支援を得て北京に住み、ここで、それまでカンボジア国内で自らを弾圧してきたカンボジア共産党と共闘して反ロン・ノル統一戦線「カンプチア民族統一戦線」を結成したのです。
カンボジアの農村地帯でのシアヌーク殿下の人気は高く、反ロン・ノルのゲリラ活動は農民の支持を得て国内で勢力を伸ばしていきます。この時の活動の中心になっていたのは、ポル・ポト指揮するカンボジア共産党とそれを支援する北ベトナム兵でした。
1975年4月17日「カンプチア民族統一戦線」の軍隊はカンボジア首都プノンペンに突入しロン・ノル政権を崩壊させました。

[5]ポルポト政権誕生
「これで内戦が終わる」と喜んだ市民はポル・ポト率いる軍隊を歓迎します。
しかし翌日から市民たちの運命は暗転するのです。プノンペン市民200万人は1人残らず市外に追い出されます。入院している病人だろうと、高齢者だろうと、幼児だろうと一切の例外は認めず反抗するとその場で殺されました。
ポル・ポトとその仲間たちにとって都市の住民は敵でした。
自分たちが農村で戦っていたのに対して、プノンペン市民は戦場から逃げ出し、都市でのうのうと暮らしていた事が許せなかったのです。またポル・ポトは200万人の市民を農村で新たな農業労働力として利用しようとも考えていたのです。



ポルポト


[6]原始共産制
政権を握ったポル・ポトは、原始共産制とも言うべき政策を実施します。
貨幣廃止、宗教の禁止、学校の廃止、病院の廃止
国民は共同農業に所属され、共同農場での収穫や財産は全て国のものとなります。
家族と言うまとまりは解体、子供たちは5~6歳くらいで親から引き離され「国家の子供」として教育を受けるのです。
恋愛は認められず、党が決めた相手と結婚して子供を産むことを強制されました。
逆らうものは「反革命」として処刑されました。

[7]知識人の大虐殺
ポルポト政権の最大の特徴が「知識人敵視政策」
中学を卒業した者、字を書ける者、本が読める者、眼鏡をかけている者
たったこれだけの理由で「知識人」として処刑の対象となるのです。

知識人を見つける為にトリックを使い
「子供たちの学校を開きたいので教師をしていた人は名乗り出てください」と呼びかけ、
手を挙げた人は2度と戻ってくる事はありませんでした。
海外の知識人も処刑の対象で「祖国のために力を貸してほしい」と呼びかけ空港から
帰国後にそのまま連行され、直ちに全員処刑されました。
このような知識人の抹殺政策によりカンボジア国内には読み書きができる国民が
ほとんどいなくなったのです。
「ものごとを知り、自分の頭で考える」事のできる人間は支配の邪魔になる考えたのです。
「肉体労働こそが全ての基本」という素朴な原始共産制の思想が根底にあったのです。
当時の全人口600万人のうち200~300万人が殺されたと言われています。

[8]戦争の爪痕
戦争をしている時に埋めた地雷がカンボジア国内だけで600万個あると言われています。
また不発弾も多く残っており、いまだに多くの犠牲者が絶えません。
普通戦争では地雷をどこに埋めたかを地図に示すのですがカンボジアではそれがなされていません。ほとんど、どこに地雷を埋めてあるかがわからない状態なのです。



この赤いマークは”ここに地雷があります”と言う意味で、この周辺には地雷が埋まっている可能性があります。



地雷除去作業


スリーピースメンバーがカンボジアで出会った地雷被害者の言葉
「100万ドルあげるから残ったもう片方の足で地雷を踏め」と言われたら
迷わず私はそうするだろう。仲間たちも同じだと思う。
地雷被害者は差別で苦しんでおり、仕事もなく物乞いする人も多い。自殺する人もいる。
それほど貧しく生きていくのが大変なのです。



終了後のディスカッション


今回上映した内容は私たちが知らなかった事ばかり
このような事実があった事に目をそむけることなく
知っていかなくてはなりません。
あそして自分たちの子孫に語り継がれていく事で
戦争を少なくしていけるのではないでしょうか?
そんな理想を信じ、スリーピースはこれからも活動を
続けてまいります。




アンコールワット


参考資料
『そうだったのか!現代史』 池上彰


感銘を受けた言葉
『平和は、人類最高の理想なり』
ゲーテ
  


Posted by スリーピース at 22:09Comments(0)DVD上映会