
2011年06月12日
パレスチナ問題勉強会
ヨルダンのパレスチナ難民キャンプにいる子供たち
今回は、パレスチナ問題について勉強会!!
勉強会の様子1
パレスチナ問題と背景
紀元1世紀にユダヤ王国という国がありました。
しかし、ローマ軍に滅ぼされ、ユダヤ人は世界に
離散していきました。
↓
ユダヤ王国が滅びたあと、この地にはアラブの人々が
住むようになりパレスチナを含むアラブ地方は、
1516年~1917年の400年間オスマントルコが
この地を支配します。
↓
中東での覇権をめざしたイギリス第一次世界大戦で
オスマントルコと戦い、戦争を有利に進めるために
「三枚舌」外交を行います。
①フランスとの間では、戦後の中東を両国で分割する
密約を結び
②アラブ人にはパレスチナを含むアラブ国家の独立を認め
③ユダヤ人に対してもパレスチナでの「民族的郷土」の
建設を支援する約束
しかし、中東はイギリスとフランスの両国が支配し、
パレスチナはイギリスが占領下となります。
↓
19世紀末以降、特にヨーロッパにおける反ユダヤ主義※
の高まりの中、自分たちの国の建国を目指して
パレスチナへの移住を開始します。
これを、シオニズム運動と言います。
また、1930年代以後のナチスによるユダヤ人の迫害が
この移住に拍車をかけます。
600万人のユダヤ人が虐殺されたとも言われています。
※ユダヤ教は強烈な選民思想であり、排他的な思想であり、
イエス・キリスト殺害の張本人であることなどを理由に迫
害を受ける。
↓
パレスチナに住んでいたアラブ人と、郷土に戻ってきた
ユダヤ人との間で対立がおこります。
↓
第二次世界大戦が終わる頃、パレスチナのユダヤ人人口は
60万人に達していました(人口の1/3)。
パレスチナ人とユダヤ人の衝突に手を焼いたイギリスは、
1947年問題解決を国連に委ねます。
同年11月、国連はパレスチナをパレスチナ人とユダヤ人の
国家に分割し、エルサレムを国際管理下におくという
パレスチナ分割決議を採択します。
人口で1/3、土地所有面積で6%弱のユダヤ人に57%の
地域を割り当てる決議をユダヤ人は受入れるが、
アラブ人は拒否。
↓
1947年5月14日、イギリス軍が撤退するとユダヤ人は
当事者間の合意がないまま、イスラエルの建国を宣言
分割決議に反対するアラブ諸国がイスラエルに攻め込み
第一次中東戦争が始まります。
中東戦争は25年にわたり、第1次~第4次まで続いた。
ビジネスに成功して財をなしていたユダヤ人は、
豊富な資金で武器を大量に調達し
いずれの戦争でも勝利する。
戦争の結果、イスラエルは国連の決めたユダヤ人の
領土をはるかに超えて侵略
追い出されたパレスチナ人70万人(100万人とも)が
難民となりました。
↓
「オスロ合意」
1993年9月
イスラエル政府とパレスチナ解放機構(PLO)によって
結ばれた和平への枠組みをとりきめた合意です。
ノルウェーの首都オスロで主に協議されたことから
「オスロ合意」とよばれています。
背景としては、パレスチナ解放機構(PLO)がテロを
闘争手段とするこれまでの路線の転換をおこない、
国際的にも地位が高まる一方、湾岸戦争を機に
中東紛争の解決を求める国際世論が
高まっていました。
また、イスラエル側も87年に始まったパレスチナの
インティファーダ(民衆決起)で、武力による
他民族支配の永久化が不可能なことを悟り始めたのです。

イスラエル・ラビン首相とPLOアラファト議長
↓
イスラエル占領地の中の都市でパレスチナ自治政府が
発足し、自治が始まりました。
西側:ガザ地区 東側:ヨルダン川西岸地区

↓
しかし、イスラエル政府はイスラエル側から
パレスチナ自治区内にユダヤ人が移住させる
政策をとります。

↓
60年たった今でも、この問題は解決していない
勉強会の様子2
補足情報
①宗教
イスラエル:ユダヤ教
パレスチナ:イスラム教
②エルサレム
イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の聖地はともにエルサレム
エルサレムはイスラエルが占領したが、国際管理都市のため
イスラエルの一部とは認められていない。
③パレスチナ内でも考え方が2分している。
ハマス:イスラエルの存在を認めない
ファタハ:イスラエルとの和平
④仕事
パレスチナ側ではほとんど仕事がなく、
イスラエルに出稼ぎに出る労働者が多くいます。
イスラエルの法律では30歳以上でないと
イスラエルで働くことができないのです。
⑤ユダヤ人の財力の背景
ヨーロッパにおける反ユダヤ主義で差別を受け、
まともな職につけないと言う状況にありました。
そこで、金貸し業を始め、ビジネスを大成功させたのです。
ユダヤ系企業と言われている大企業も多くあります。
ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレー
メリルリンチ、シティ・バンク
クレディ・スイス(スイス)、J・P・モルガン
エクソンモービル、ボーイング、P&G
GE、GM等々
最後に印象に残った言葉を紹介します。
何よりも知っていただきたいのは、今日みなさんが会った
人々が抱えているのは「貧しいから助けてほしい」という
問題ではないということです。
大量の援助物資を持っていっても、それは1日もすれば
なくなります。解決しなくてはならないのは、
明日の食料の問題よりも、故郷を追われた人たちが
故郷に帰れずに苦しい環境にある、それに対して
国際社会がなすすべをもっていないという
構造そのものなのです。
難民キャンプを訪れると、みなさんはよく
「私に何ができますか?」と聞きます。
日本人として、イスラエルパレスチナ情勢に変化を
起こそうとするのはたいへんなことです。
ですから、みなさん自身に変化の担い手になって
ほしいとは言いません。
僕たちに必要なのはほんの少しのチャリティーよりも、
政治構造の変化なのです。
僕は、ヒロシマ・ナガサキがあった第二次世界大戦後に
素晴らしい復興を果たした日本のみなさんがとても好きです。
アメリカの一部を抜け出して、もう一度自分の国を
つくってください。幸い、日本には憲法9条もあります。
戦争をしない、戦争に協力しない平和な国のモデルとして、
平和立国してほしいと思います。
日本が大好きなアラブ人は僕だけではありません。
みなさんひとりひとり、それぞれに考えて、
平和な世界のためにできることをしてください。
パレスチナを知ろうとここまで来てくださって
ありがとうございました。
これからもパレスチナ人と日本人の友好が続きますように。
自分たちができること、それは一人でも多くの方に
このような現実が、今もなお起こっていると言う事を
語っていくことです。
それしか出来ませんが、それがとても大事なことなのです。
よーし語って語って語りまくるぞー!!
参加メンバーの皆さまお疲れ様でした



2010年05月09日
2010年5月8日 高知研修
桂浜の坂本龍馬像
今回の活動は、スリーピース研修として高知に行ってきました!!!
坂本龍馬記念館入口
記念館前で記念撮影
マッチ棒で描かれた坂本龍馬
実物大セットで復元された「近江屋」
坂本龍馬は何をした人なのか!?
「龍馬は江戸幕府を倒すきっかけを作った人」といえます。当時の幕府は外国の要求を拒絶する力が無く、諸藩をまとめる力も弱くなっていました。しだいに、このような幕府では日本を守れないと考え、幕府を倒して天皇の下に統一された国家が必要だと考える人が現れました。龍馬もその一人でした。
龍馬は幕府を倒すために、まず幕府と対抗できる大きな力を持った薩摩藩と長州藩の同盟を成功させます。薩摩藩と長州藩は後々、武力によって幕府を倒そうと考えますが、龍馬は国内で戦争をしてはいけないと考えていましたので、平和的な倒幕である大政奉還を土佐藩に提案します。この案は土佐藩から徳川慶喜に進言され、慶喜もこれを受け入れて、形式上は幕府が消滅しました。そして、龍馬は新政府が進むべき道を船中八策によって示しました。
坂本龍馬記念館HPより抜粋
船中八策
1.政権を朝廷に奉還し、政令は朝廷より出すべき事(大政奉還)
2.上下議政局を設け、議員を配置して政事を参照し、政事は公議を以て決定する事(議会開設)
3.有能な公卿諸侯その他の才人を顧問として官爵を賜い、従来の有名無実な官位は除くべき事(官制改革)
4.外国との交際は広く公議を採り、新たに至当な規約を成立せしむ事(条約改正)
5.古来の律令を折衷し、新たに法典を撰する事(憲法制定)
6.海軍を拡張する事(海軍の創設)
7.御親兵の設置を以て帝都の守衛をなす事(陸軍の創設)
8.金銀物価は外国と均しく法を設ける事(通貨政策)
龍馬がが起草した新国家体制の基本方針とされるものです。
前土佐藩主の山内豊信(容堂)に対して大政奉還論を進言するため、藩船の夕顔丸で長崎を出航し、上洛中の洋上で参政の後藤象二郎に対して提示したものを海援隊士の長岡謙吉が書きとめ、のちに成文化されたものと言われています。
私はこの点にとても感銘を受けたのですが、当時の日本には、倒幕を考える人はたくさんいたのですが、龍馬は倒幕後の日本を考えて船中八策を起草したのです。
龍馬と言う人物は、本当に日本の将来を良くしていきたいと考えいたんですね。男としての器の大きさに自分も学ぶ所がたくさんありました。
昼ごはんには、自分でカツオを焼くお店でカツオのたたきをいただきました(^◇^)
お店の外観
ワラでカツオを焼く風景
お店の方にカットしていただく
できあがり!!!
午後からは桂浜に行きました(^O^)/
天気も恵まれとっても奇麗な景色でした。
ツイツイ水平線を眺めながら、龍馬はこの景色を見ながら何を思っていたのかと考えこんでしまいました(笑)
もちろんスリーピースはこのまま帰りませんよ(^◇^)
恒例の清掃活動
清掃終了後に記念撮影
そして、最後は岩崎弥太郎生家にいきました。
三菱関係諸会社有志によって建立された岩崎弥太郎記念碑
三菱グループのスリーダイヤは、岩崎家(旧三菱財閥創業家)の家紋「三階菱」と、山内家(土佐藩主家)の家紋「三つ柏」から考案されたものである。始めは九十九商会の船旗号として採用され「三角菱」と呼ばれた。
岩崎弥太郎とはどんな人物なのか!?

三菱(みつびし)財閥の創設者。号は東山。天保(てんぽう)5年12月11日、土佐国安芸(あき)郡井ノ口村(高知県安芸市)の地下(じげ)浪人で上農の弥次郎の長男として生まれる。
安政元年(1854)、江戸遊学前に、近くの妙見山の星神社に参拝した弥太郎は、扉に「後日 英名ヲ天下ニ轟カサザレバ 再ビ帰リテ此ノ山ニ登ラジ」と大書。大きな志と強い意志を胸に、江戸の安積艮斉に入門しました。しかし翌年、酒席の喧嘩がもとで父親が投獄されたのをきっかけに、帰省。あまりに激しい免罪の訴えが奉行所の怒りを買い、やがては彼自身も獄中の人となります。安芸郡を追放された彼は吉田東洋と出会い、それを機にあらたに飛躍の道を拓いたのでした。
その後、東洋の後を受け継いだ後藤象二郎の下で、弥太郎は次々に才覚を発揮し、長崎に設立した土佐商会で腕をふるった後、明治6年(1873)三菱商会を設立。以前に長崎で坂本龍馬から得た示唆により海運業に着眼します。そして、幕末から続く諸外国の汽船会社などとの激しい戦いを制し、"東洋の海上王"と異名をとるようになりました。
明治18年、享年52歳。疾風のごとく世界を駆け巡った異才、岩崎弥太郎は生涯を閉じますが、死の床で「東洋の男児」と叫んだという熱き志は、弟、弥之助にしっかりと受け継がれ、鉱山、造船、不動産、金融へと拡大し、世界に名だたる現在の三菱グループへと発展してゆきました。
安芸市立歴史民俗資料館HPより抜粋
いやー、今回はとても楽しく勉強になった研修となりました。
歴史の人物に触れるだけで満足するのではなく、学んだ事を生活や仕事の中で、どのように活かしていくかが大切だと思います。私も龍馬のように日本の将来を考える事の出来る人間になれるよう努力をおしまず、日々精進していく所存でございます。
スリーピースメンバーの皆さまお疲れ様でした(^○^)
感銘を受けた言葉
「今一度日本を洗濯致し申し候」
坂本龍馬